瓜生島 一夜で沈んだ島にまつわる物語

別府市亀川方面より大分市を望む、右は高崎山。

瓜生島 えびす様の怒りで沈んだ島

九州豊後国(現大分県)にある別府湾が、豊後湾と呼ばれていた頃のお話。

豊後湾内には瓜生島うりゅうじまをはじめ大久光島、小久光島、東住吉島、松島をはじめ数々の島々があり、渡し舟を使って島伝いに大分と別府を繋ぐ道もあったと言われている。

島々の中でも、府内(現大分市)沖にある瓜生島が最も大きく、東は萩原沖、西は白木沖までの東西凡そ一里(約4km)南北に凡そ半里。洲浜のような場所で山や丘は無いが、海岸線に沿うようにある松林と海の青の対比が美しい島だった。

大友家が治めていた頃の府内は博多と共に九州における貿易の拠点として繁栄しており、海外からの船も多く遠くはからだけでなく南蛮からもやって来ていたそうで、瓜生島もその恩恵を受けて栄えていた。一つの町と十二の村々があり、家は千戸を超えていたという。

島の中心は沖の浜町と呼ばれ、島長しまおさである幸松さきまつ家の立派な屋敷を中心に本町、東町、新町と呼ぶ大通りが走っていた。この幸松家は代々信心深いことで知られ、そのおかげもあり島には威徳寺、阿含寺、住吉神社、えびす社(※1)他多くの寺社があった。当代の勝忠殿も同様であり、島の人々と共に朝に夕にと手を合わせていたという。

そんな島には言い伝えがあった。
「この島の者は、皆仲良うせねばならぬ。諍いを起こす者あらば、島中の神仏の怒りで島はたちまち海に沈むであろう」
そして、えびす社に奉納されている木彫りのえびす様の顔が赤くなるのがその顕れとも伝えられていた。
この言い伝えは島の各家で代々語り継がれ守られてきたため、喧嘩が始まりかけても「はよやめんか。えびす様の顔が赤くなるぞ」の一言で全て治まった。

ただどこにでも信心から縁遠い人も居るものだ。
甲引さからす村に住んでいた医者の加藤良斎はこの言い伝えを頭から馬鹿にして、
「これほど大きな島が神仏の祟りで沈むなど有り得ぬ事じゃ」
と、誰はばかることなく言い触れていた。

信心深い島の人たちにとっては気が気でない。
「そんなことばかり言ってると、とんでもない神罰があたるぞ」
と良斎を諫める者も居たが、馬の耳に念仏、暖簾に腕押し、糠に釘。
「何を言うておるか、そんな古臭い迷信を信じおって馬鹿者どもが。面白い、どんな神罰があるか見てやりたいものじゃの」
島の年寄りの諫めを鼻で笑い飛ばしていた。

とある日のことだった、良斎は面白いことを思いついき、夜を待ってえびす社へとこっそり出かけた。
そして木彫りのえびす様の顔を、懐にしのばせてきた紅殻べにがら(※2)で真っ赤に塗りたくり、何食わぬ顔で家に戻ってきた。

翌朝の島は大騒ぎとなった。
朝のお参りに行った近くに住む爺さまが、
「大ごとじゃあ! えびす様の顔が真っ赤になっとるぞぉ」
と島じゅうに知らせまわったからだ。

大事おおごとになってしまったのぉ。何も起きねばよいのだが…」
「島が沈む前に逃げ出さねばならぬ」
島民の中には家財道具をまとめる者も出始め、気の早いものは府内の知り合いの所へと駆け込んだ。

三日経ち、四日が過ぎたが、島には何事も起きなかった。
十日が過ぎても何事も無く、島も海は静かなままで、漸く島民たちは落ち着きを取り戻した。
それを見た良斎は、
「えびす様の顔を赤く塗ったは、わしじゃ。ためしてみたんじゃ。どうだ、ただの迷信じゃったろうが。島はなんともないぞ」
そう高笑いをし、
「どんな神罰が当たるか、見たかったもんじゃのう」
と逆に皆を煽り返し、胸を張った。

「このままで済めば良いのだがのぉ…」
そんな良斎を余所に島の人たちは、囁きあった。

それから三日後の慶長元年(1596年)六月、豊後国を中心に、時折地震が起きるようになった。
「神罰の前触れじゃ!」
と島民達の中には恐怖心を甦らす物も居た。

同年閏七月に入っても豊後国に地震は続き、島も日に四度、五度と揺れるようになった。
激しい揺れだけでなく、不気味な地鳴りも聞こえるようになると、
「ただ事じゃねぇ! 言い伝えは本当じゃった、こりゃあ神罰の前触れに違いねぇぞ」
皆で噂しあい、怯えながら暮らしていた。

そして、同月十二日未の刻(午後二時頃)を迎える。

ごごうごうごう、ごごうごう…、今の世にいう慶長豊後地震(※3)が発生した。
石垣は崩れ、家が潰れ、人々の悲鳴が島を覆いつくす。

「あれ見よ! 木綿ゆう山(由布山)や御宝山(鶴見岳)が火を噴いてるぞぉ」
「高崎山も崩れとる…」
空は赤く燃え盛り、焼けた大石まで音をたてて島にふりそそぎ、美しかった松林も多くが倒れた。
この世のものとも思えぬ光景に、島の人たちは難を逃れようと慌てふためいた。
そんな中、生き残っている島民たちは揺れの合間を縫って、荷物をまとめ、何とか逃げる支度を整え時期をうかがった。

申の刻(午後四時頃)になると地震や地鳴りも静まり、『もう大丈夫かもしれぬ』と人々は安堵の色を浮かべ夕餉や風呂の支度を始め、平穏無事になるかと思えた時に町中に声が響いた。
「島が沈むぞぅ。一刻もはよぅ逃げるのじゃ!」
白い馬に跨った老人が大声で触れ廻っている。
皆が神仏の使いだったにちがいないと思い、海へ舟へと我先に逃れていった。

泣き叫ぶ子供の手を引き、お腹を抱える女。
大きな荷物を背に立ち尽くす者。
足の弱った老人を励ます者。
再び阿鼻叫喚の世界となり、その中にあの良斎の姿も見られた。

そして酉の刻(午後六時頃)、再び激しい揺れが襲った。
砂州伝いに逃げる者、小船を必死に操る者。
何故だろうか、一瞬の間があった後、逃げ惑う人々の声を静けさが覆いつくした。

既に海の水は遠くへと引き、海底の岩が顔を出している。
やがて、激しいとどろを伴って、山のように盛り上がった津波が押し寄せたのだった。

一夜が明け、府内から見た豊後湾には夥しい材木が浮かんでいた。
すぐそこに見えていたはずだった瓜生島はじめとした美しい島々は、どこにも見あたらなかった。
島長の勝忠殿の船は転覆し波に飲まれるも、何とか息子を抱きしめていると、其処にあの白馬に跨っていた老人が現れ竹竿を差し出したという。必死の思いでその竹竿を掴んで息子共々助かったという。

島人のうち助かった者は七分の一ほどで、その中にあの良斎は含まれてはいなかった。
行き方知れずの者は数知れず、島民だけで死者は七百名を超えたという。

本文註

※1)えびす様
夷、戎、胡、蛭子、蝦夷、恵比須、恵比寿、恵美須などと記されるが、この物語では平仮名で表記しておく。
現在は商売繁盛の神様として知られているが、古来は海神や外来からの物に対する神格として捉えられていたと考えられる。
大分市勢家には、恵美須社があり事代主神を祀っている。

※2)紅殻
べんがらと読み、元々は弁柄と表記した。べにがらはその訓読みである。
当時天竺国であるベンガルの読みが訛ったもの。
酸化鉄の赤色顔料。

※3)慶長豊後地震
一五九六年九月四日(文禄五年閏7月12日)に豊後国で発生した地震で、死者八百余人、別府湾地震、大分地震などとも言う。
記録の日付が錯綜しており、慶長豊後地震を慶長伊予地震と同じく九月一日とするものもある。
慶長豊後地震のほかに慶長伊予地震、慶長伏見地震も発生時には文禄五年であったが、これらの天変地異を期に文禄から慶長に改元された推移がある。しかし、その後も慶長地震、会津地震、慶長三陸地震等と大きな地震は続き、この時期の地震を併せて慶長大地震とも呼ばれる。

伝説「瓜生島」の解説

場所 大分県大分市沖の別府湾
時代 戦国期慶長年間
話型 天災予言、因果応報譚

小説にもいくつか取り上げられており、まんが日本昔ばなしでも「瓜生島とえびすさま」という題で放送された。

後日譚

島にあった威徳寺の和尚も助かった一人だが、寺の宝物はすべて失せた。しかし夢枕に立った僧侶が「宝物は仏崎にある」と告げたので、行ってみると本尊、名号などが流れ着いていたという。後に大分市勢家に瓜生山威徳寺として再興、その時流れ着いた文書を今に伝えている。また島にあったという松も寺内にあったが戦火で焼かれ、今はその二代目が茂っている。

瓜生島の不思議

今から四百年程前の事でもあり、「豊府聞書」や「雉城雑誌」等に書かれた伝説や昔話、島長だった幸松家に伝わる瓜生島の地図等は残っているようだ。ただし、古地図や伝承、記事など民間に伝わるものは多少あっても、為政者側の記録は見られない点が瓜生島の謎を深くしている。

地震が起きたのは文禄五年であるが、文禄二年(1593年)には豊後の大名であった大友家は改易され、関ヶ原の戦い(慶長五年=1600年)で豊後高田領主だった竹中重利が府内藩の藩祖となるまで府内周辺も豊臣家の蔵入地(直割地)であった。
地震の記録はちょうどこの時期で、これを政治的空白期とみるかは知見を持たないが、それでも瓜生島に関する政治的な記録は全くないのである。

渕敏博氏は論考「瓜生島沈没伝説」の中で、

確かに、沈没以前の史料に「瓜生島」としては登場しないが、「沖の浜」という地名が頻繁に出てくる。

(中略)

瓜生島とは、大分川の河口付近に形成された砂洲が発達したもので、これが慶長元年の直下型地震によって液状化を起こし、大津波によって、海中に崩れるように沈んでいったのではないか、とも考えられる。

渕敏博 2018年 瓜生島沈没伝説

と述べている。

興味の湧いた方は、古地図を見ながら往時を想像しつつ散策してみるのはいかがだろうか。

~類話~

長崎県北松浦郡では、沖にあったという高麗島も同様の話で一夜にて沈んだと伝えられている。
また瓜生島の話でも、迷信の対象がえびす様でなく、地蔵であったり、社の唐獅子であったりと幾つかの変形があることも記しておく。個人的には海にまつわるえびす様に注目したいと考えている。

参考にした文献及びWEB頁

書籍 梅木秀徳・辺見じゅん 1980年 日本の伝説49 大分の伝説 角川書店 Pp.159-164.
書籍 梅木秀徳 1974年 大分の伝説下巻 大分合同新聞社 Pp.192-197.
論文 渕敏博 2018年 瓜生島沈没伝説(別府史談 No.30-31) 別府史談会 Pp.101- 112
電脳 Wikipedia 
画像 大分県観光情報公式サイト

瓜生島伝説の周辺地図

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