ひともし地蔵 航海の安全を見守る優しき国東市興導寺の本尊

お地蔵様のイメージ

大分県国東市国東町鶴川にある天台宗の興導寺蔵の本尊「火燃(ひともし)地蔵菩薩」にまつわる戦国末期から江戸時代にかけての伝説。
往時の航海は沿岸航海(※1)が主であったために、山や岬などの目印が判然としない夜の航海では津々浦々の灯火ともしびが頼りであり、中でも神社、仏閣の常夜灯は船乗り達が最も頼りとしていたという。
瀬戸内海に面する国東半島は船の交通量も多く、この興導寺の常夜灯もまた無くてはならないものだったであろう。

火燃(ひともし)地蔵菩薩の由来

天正三年(1575年)十二月二十九日夜、国東地方を突然の暴風雨が襲った。
この風雨により村々の灯りは消え、興導寺の灯りも同様であった。

しかし、沖を行く船のためにもこの灯りを消してはならぬと時の住職豪盛ごうせいは思い、数ある灯明台に火を入れるが風勢強くすぐに消えてしまう。
このままではと思った豪盛は本尊の地蔵菩薩に、「この風雨を止めてほしい」と祈るほかなかった。
すると風が少し穏やかになったかと思うと、どこからか童子が現れ、あちこちの灯明台に火を灯していくではないか。
「一体誰だろうか」と豪盛は見つめるが、すべての灯明台に灯りが戻るとその童子の姿は見えなくなった。

翌朝、豪盛が地蔵尊にお参りするとその足に泥の跡を、そして庭から灯明台へと続く小さな足跡を見つけた。
昨日の夜、童子と見えたのはこの地蔵尊であったのかと得心したといいます。

このことがあって以来、みな興道寺の「火燃(ひともし)地蔵」と呼ぶようになりました。

国東半島(杵築市)に残る常夜灯

火燃(ひともし)地蔵様、藩主松平重賢(重栄)を助ける

興導寺は江戸時代に豊後杵築藩興導寺村にあった。
その二代藩主松平重賢(※2)は篤く興導寺を信仰していたという。

重賢は無事に江戸でのお役目を終え、参勤交代で帰路へとついた。
海路杵築へと向かい、国東の山々を遥かに望むあたりで運悪く大時化しけとなった。
海は大荒れで、小山のような波が次々と船を飲み込もうとする。

老練な水夫たちは必死になって舳先へさきを陸地に向けるが、沖へ沖へと流されるばかり。
被る波のせいか、船底にひびでも入ったか、ついに船は浸水を始めた。
激しい風雨は日が暮れても続き、船も傾き始めたとあっては皆生きた心地もしない。

「神も仏もないものか」
と乗員たちが恨めし気に言うのを聞いた重賢は、航海安全の仏「火燃(ひともし)地蔵」を思い出した。
重賢だけでなく家臣に水夫、皆が一心に地蔵に祈った。
「どうかお地蔵様、我々をお救いくださいませ」と。

すると、どうしたことかこれまでの風雨はぴたりとおさまり、闇も晴れて明るくなった。
そして船は無事に黒津崎につくことができた。
重賢は改めて興導寺への崇敬を篤くし、礼として立派なお堂を寄進。
興導寺村の皆も霊験あらたかな「火燃(ひともし)地蔵」に感嘆したという。

ちなみに重賢没後享保の終わり頃にも話がある。
熊本藩主細川家の殿様が江戸からの帰途に大嵐にあったという。
細川家は熊本へ転封前に一時国東半島を領し、転封後も熊本藩預地として岩戸寺村、堅来村、深江村他全九村を管理し何かとこの地と関連があった。
殿様もその縁か「火燃(ひともし)地蔵」を思い出してすがると、霊験ありて無事に港へと着いたと伝えられている。

本文註

※1)沿岸航海
陸岸に接近して航海すること。
交差方位法と呼ばれる方法で同時に2ヵ所以上の沿岸の地物,および航路標識の方角を測定し船位,針路を定める。

※2)松平重賢まつだいらしげかた
町史や伝説では重賢を記すが、重栄しげよしの方が通りがよい。
杵築藩は譜代三万二千石で、正保二年(1645年)から明治維新まで存続。
能見松平家、官位は従五位下・日向守、丹後守。

伝説「ひともし地蔵」の解説

場所 大分県国東市国東町鶴川
時代 戦国から江戸
話型 観音霊験譚、菩薩霊験譚

興導寺と地蔵様

この興導寺は天台宗のお寺であり、本尊の地蔵と共に空也上人により、天徳三年(959年)に建立されたとされる。
慶長五年(1600年)に戦火により焼失するも、松平氏入部後の正保元年(1644年)に再建される。
火燃(燈燃)地蔵としての由来は、町史掲載の通り「豊鍾善鳴録」にも記されている。

この興導寺では本尊として安置されているが、石造佛として村から町まであちこちの道端やお堂に安置されている方が馴染みが深いと思う。
とげぬき、いぼとり、眼病など専門職ともいえる名称を持った地蔵名は、人々の間に広く深く根付いた証左でもあろう。
一般には「お地蔵さん」や「お地蔵様」と呼ばれ、昔話の「傘地蔵」、「田植え地蔵」などに代表されるように常に取り上げられており、昔話界の代打の切り札的地位を確保している。

杵築城中に現れた幽霊

航海中の危機において火燃(ひともし)地蔵の助けを得た二代藩主松平重賢であったが、実は興導寺が関わる後日談も伝わっているので、国東町史から簡単に記しておく。

【登場人物】
松平重賢
正室 本多康将(近江膳所藩主)娘
側室 与力岡十郎右衛門の娘
興導寺 ひともし地蔵

重賢の側室が腹に一物を持ち父及び重賢の叔母と結託。
隠居していた先代まで巻き込んで正室批難大会が絶賛開催される。

家の大事と悩んだ重賢は正室を離縁し、側室を正室に。
正室転じて元嫁は愛児も奪われ、悲嘆にくれながら海路で故郷の膳所に向かう。
元嫁お供の女中が、あまりの仕打ちを憤り瀬戸内海に身投げ。

喜色満面の正室だが、杵築城内に正装した奥女中の幽霊が現れるようになる。
ついに亡霊のとりことなったので、菩提寺で弔うも効力無し。
興導寺に頼り、ひともし地蔵を運んでまで祈願するも効力無し。
享保十九年十月十三日に悩み死ぬ。

翌年地蔵像他を興導寺に返還、いくらひともし地蔵でも非道なお祈りは効果なしと結ばれる。

突っ込みたい箇所は沢山あると思うが、現時点では自身の調査が足りてないので記さずにおこう。

参考にした文献及びWEB頁

書籍 梅木秀徳・辺見じゅん 1980年 日本の伝説49 大分の伝説 角川書店 Pp.89-90.
書籍 梅木秀徳 1974年 大分の伝説下巻 大分合同新聞社 Pp.97-99.
書籍 国東町史 国東町史刊行会 1973年 Pp.775-776.
電脳 Wikipedia、他

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