青の洞門 隧道に秘められた仇討ちの物語

洞門内部の様子
隧道内には今も鑿の跡が残る。

青の洞門 ~禅海和尚三十年の苦闘~ 小説「恩讐の彼方に」の題材

豊前国中津藩(現大分県中津市域周辺)、時の藩主は 奥平昌成おくだいら まさしげ公の頃の話。

藩政の中心であった中津城は、周防灘を望む河口に在り、黒田孝高(如水)が築城し細川忠興が完成させたもので、堀は海水が引き込まれた水城として、今治城や高松城と並ぶ日本三大水城の一つに数えられている。城の縄張りが扇の形をしているように見える事から扇城(せんじょう)とも呼ばれている。

さて、この中津城北側を流れる山国川(※1)を遡る事三、四里ほどの所に下毛郡青(現中津市本耶馬渓町内)という集落があった。

青の集落と下流側の樋田の間には、帯岩・妙見岩・殿岩・釣鐘岩・陣の岩・八王子岩など呼ばれた奇岩群(※2)が十町(約1キロ)ほど山国川に沿って屹立していた。

青と樋田を行き来するにはこの奇岩群を越えねばならず、その道は切り立った岸壁に沿って丸太を組み上げた桟道を鎖を頼りに渡ることから「青の鎖戸渡しくさりわたし」とも呼ばれていた。
不便極まりない交通の難所であり、足を滑らせ山国川に転落する者が後を絶たなかった。

享保(1716年~1736年)の頃、この奇岩群の間からのみが岩を砕く音が響き続けたと言う。
音の主は一人の僧侶で、その名は禅海。

この僧侶、元越後国(現新潟県)高田藩士の家に生まれ、出家する前は福原市九郎といった。幼い頃に父を亡くし母と共に江戸へと出る事を余儀なくされたが、親子の暮らしは惨めなものであったらしい。

市九郎は病気となった母を顧みることなく悪い仲間とつるみ、喧嘩や盗賊もどきなどをして荒んだ日々を送っていた。そんな折世話をしてくれていた中川四郎兵衛という武士を殺し、それを聞いた母も亡くなってしまう。

江戸から逃げだした市九郎は山賊同然の暮らしを始めるも、救われることのない我が身と母への思いを募らせ寺門を潜った。そしてこれまでの罪を償うために出家、禅海と号し雲水として行脚の旅に出たのであった。

禅海は九州豊前国を訪れ、羅漢寺に詣でようと山国川を遡り樋田の集落へと辿り着いた。
中津城下にて「鎖戸渡し」の話は耳にしていたものの、いざ樋田から青へ抜けその先の羅漢寺に行くべく崖に取り付くと、岩肌の鎖につかまりながら眼下の川に目も眩み、『命が惜しい』という浅ましい自らの声が聞こえたかのようだった。

羅漢寺にて人心地がついた頃、禅海は多くの失われた命を思い浮かべることとなった。
寺内に在った五百羅漢の石像が、転落死した人々の苦しみを伝えてくるかのように…。

ご本尊である釈迦如来を前にし目を閉じれば、『あの岩を刳り貫いて道を作れたなら…』と心に浮かぶ声が聞こえたという。
禅海は大岩へと立ち向かうことを決めたのだった。

カァァン、カァァン。
その日以来、の岩を砕く音が川べりや奇岩群に響き始めた。

不思議に思い様子を見に来た村人が、
「お坊さん、一体どうなさるんで…」
と尋ねると禅海は、
「この岩を削り、青と 樋田を繋ぐ道を作ります」
そう答えた。
禅海の言葉に村人たちは、耳をうたがい、顔を顰めたという。

時に托鉢に廻る禅海には、
「気狂い坊主!」
「乞食坊主!」
など、村人からの容赦ない声が浴びせられた。

心無い者の嫌がらせも多く、ガキ大将と思われる少年も、
「糞坊主、これでもくらえ!」
と石を投げつけ、その仲間達も囃したてていた。

カッ、カッ、カァァン。カッ、カッ、カァァン。
それでも禅海は雨の日も風の日も、休むことは無かった。
暑い日も寒い日も静かに念仏を唱えながら。

カッ、カッ、カァァン。カッ、カッ、カァァン。
自らが殺した中川四郎兵衛への供養だろうか。
これまでの自分の犯した罪の償いか転落死しした者達への追悼か。

禅海は一心不乱に槌を振い、鑿で岩をただただ掘り進めて行った。

三月、半年、一年と経つにつれ着物は破れ、神も髭も伸び放題になった。
始めは嘲っていた村人たちも静かに見守るようになり、小さかったはずの岩穴は次第に深く大きくなっていた。

また一年そしてまた一年と経っても、禅海はただただ槌を振い続けていた。

「もうすぐ消えて逃げるさ、なぁみんな」
「そうだ、そうだ、できるわけがねぇ!」
こう語り合っていた村人達だったが、
「あの坊さまは、えらい坊さまじゃ」
「うんうん、本当に青まで掘り抜くかもしらんぞ」
ただ一人掘り続ける禅海に心を開き始めるようになり、
「あのぉ、お坊さま。わしに手伝えることはないですかのぉ」
ついに禅海を手伝う者も出始めた。

かつては石を投げ悪口を言い囃していたいた子供等も、
「お坊さま、僕らも手伝えるよ!」
と、砕かれた岩屑を運ぶようになった。

禅海が『青の鎖戸渡し』を目にしてより既に二十六年もの月日が流れた。
灯された小さな明かりがかすかに洞内を照らす中、この日も禅海は岩と立ち向かっていた。

とある夏の日、一人の武士が樋田の村にやって来た。
「少しものをたずねたいのだが、岩壁を掘っているのは福原禅海というお坊様で間違いないか」
彼は少し強い口調で、洞内から岩屑を運び出して来た村人に尋ねた。

村人から話を聞いたのであろう、暗い穴からたどたどしい足取りで出てきた禅海。
六十歳は既に越えている筈だがそれ以上に弱りきりみすぼらしく、廻りの村人が倒れないように気遣っている。

武士は少し目をつむり、覚悟を決めたように身構え、一気に声を上げる。
禅海いや福原市九郎よ忘れたか。貴様に殺された中川四郎兵衛が一子実之助だ。父の仇覚悟せい」

禅海の年老いた顔に一抹の安堵が浮かんだように見えた。
「どうして忘れることができましょう。これまでの年月、四郎兵衛様を殺した罪に苦しんでおりました。この身喜んで差し上げたく存じます」
「良い覚悟だ」
実之助が刀に手を掛けようとする。

「ただただ、お願いがございまする。この身を差し出すのは、後しばらくお待ちいただきたい」
「この期に及んで、命乞いかそれとも逃げだすか!」
気色ばる実之助に禅海は平伏する。
「四郎兵衛様の罪滅ぼしの為か、鎖戸渡しにて転落した者への供養だったのか、私にも分からなくなって居ります。それでも我が身の罪滅ぼしの為、ここを行く人々の為にこの岩穴を掘り抜く積りでございます。何処へと逃げる気も力も残っておりませんが、この穴もあと数年で向こうへと辿り着けるだろうこの気持ちだけはございます。この一心に免じて、何卒、あと数年の命をお貸しくださいませ」
数人の村人も禅海と共に実之助に頭を下げる。
しかし、
「いや、ならぬ。覚悟せい!」
彼は刀に手をかけた。

傍で話を聞いていた庄屋が実之助の裾に縋る。
「せめて後三年。後三年お待ちくださいませ、村々の者もみな完成を待っております。我が家にてその時まで御身のお世話をいたします故、是非に、是非に」
村人達が涙ながらに訴えかける姿に実之助は打たれ、
「庄屋殿までそこまで言うなら、此処は引き申す。後三年ですぞ」と。

樋田村の庄屋小川家に滞在することになった実之助は、禅海が逃げないよう見張りながら日々を過ごす。
一方で禅海は、槌を振い鑿を打つ姿に益々必死さが浮かぶようになった。
村人たちにも禅海の心が伝わったのか、懸命に手伝いを続けた。
見張る日々を続けていた実之助は、仇を早く討ちたい故かそれとも村人たちの心に打たれたのか、穴に潜って手伝い始めた。

薄暗い中で岩が舞い散り、運び出す岩屑は重い。
岩肌は暑さ寒さを直接肌に伝えてくる。
簡単な気持ちでこの作業を続けることはできないと悟った実之助は、いつしか禅海と並んで槌を振い鑿を打つようになった。

カッ、カッ、カァァン。カッ、カッ、カァァン。

実之助には良く分からなくなっていた。
何故禅海が岩を掘り始めたのか。
何故人々が禅海を手伝っているのか。
何故仇と共に岩を穿っているのか。
ただただ一心に掘り進むことを考えた。

明和元年(1764年)、実之助が樋田にて過ごすようになって三年目の秋の夜。

痩せ衰えた禅海が穿った穴がぽっかりと景色を映したように見えた。
確かめるように穴の周りを掘り進めた二人には、ほんのりとした月明かりが差し、山国川のせせらぎが聞こえるように感じられた。

「うううう………」
禅海の声は音にならない。
あの日の決心から凡そ三十年の月日が流れていた。
「中川様! ついに…、ついに届きましたぞ」
苦しみから解放されるかのような、心より噛みしめた声が実之助に届く。
「うん、うん」
互いにがっしりと肩を掴みあった。

にっかりと微笑みを浮かべた禅海は正座し、
「この三年、お待たせして申し訳ありませんでした。さあ仇をお取り下さいませ」
と目を瞑った。
その後禅海の耳には洞窟を出て行く実之助の足音だけが聞こえたと言う。

「こうしてなぁ、禅海和尚の血の滲むような三十年の日々がこの青の洞門を刳り貫いたんじゃ。それ以来、わしらも旅人も安全に行き交うことができるようになったんじゃ」
孫の手を引きながら青の洞門を潜り抜け、懐かしげに語る一人の老人。

禅海が刻んだ鑿の跡を撫でるように愛おしみながら薄っすら目に涙を浮かべたは、あの日禅海に石を投げつけたガキ大将の少年であった。

本文註

1)山国川 大分県と福岡県境の英彦山周辺を源頭として、中津市街地へと流れ下る一級河川。平安時代には御木川みけがわと呼ばれ、その後は地域毎に高瀬川、広津川、小犬丸川等と呼ばれていた。1875年(明治8年)に山国川となった。
 話中の年代は江戸期で、高瀬川、広津川、小犬丸川などが考えられるがいずれも下流域であり、中流域である樋田及び青地区での名称は不明の為に今回は山国川を使用しておく。

2)帯岩他 後に競秀峰と命名され、頼山陽が描いた水墨画の代表作「耶馬渓図巻」によって天下に紹介されることになる。

伝説「青の洞門」の解説

場所 大分県中津市本耶馬渓町
時代 江戸時代享保年間
話型 仇討ち

青の洞門 

青は色でなく地名であり、旧大分県下毛郡本耶馬渓町樋田から南の同町青へと抜ける隧道である。完成した当時は「樋田の刳抜」(ひだのくりぬき)と呼ばれていたが、江戸時代末期から大正時代にかけて、「樋田の隧道」や「青の洞門」と呼ばれるようになった。

恩讐の彼方に

大正8年(1919年)1月に発表された菊池寛の短編小説。
物語中の禅海和尚は実在の人物であり羅漢寺に鑿などの遺品も残されている。工事にかかる記録類も残されているが、仇討ちの話は伝わってないらしい。
現在伝わる話は、ある意味で発表された小説に伝説がすり寄った形と言えるかもしれない。

また類話(国東町史)が同県国東町にある文殊仙寺にも伝わっており、同寺宝篋印塔造立を願う僧浄覚と仇討ちに来た鶴若丸の物語となっている。
完成を見た浄覚は筵を敷いて首を差し出した。これを見た鶴若丸は刀を一閃するが、落ちたのは側にあった石地蔵の首だったという。

参考にした文献及びWEB頁

書籍 梅木秀徳・辺見じゅん 1980年 日本の伝説49 大分の伝説 角川書店 Pp.219-230.
書籍 梅木秀徳 1974年 大分の伝説下巻 大分合同新聞社 Pp.229-236.
書籍 大分県の民話 偕成社発行
写真 ツーリズムおおいた

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