多田三八郎の妖怪退治 上田市虚空蔵山のクハジャ他一編

長野県上田市太郎山 虚空蔵山はもう少し左^^

虚空蔵山の怪物 クハジャ退治

信濃国小縣ちいさがた郡上塩尻村(現長野県上田市上塩尻)、上田の町から望めば北に連なる山々の一峰に虚空蔵山こくぞうやまがありました。

戦国期はこの虚空蔵山に城砦がおかれており、永禄年間に甲斐国武田信玄の家臣多田三八郎(※1)が在番としてここを守備することになりました。
三八郎は淡路守とも称し、戦場での活躍もあり怪力豪勇の武士もののふとして知られています。

或る月明かりの美しかった夜の事です。
突然雲が月明かりを遮ったかと思えば、風雨が巻き起こりました。
周囲の様子が妙に騒々しくなったので、三八郎は一人で物見櫓へと登りました。

思い当たることでもあったのか、周囲を探りますが、
「特に変わったことはない、か…」
三八郎は配下の者に指図(さしず)しようとした、その時でした。

いきなり三八郎のもとどり(※2)を掴み天空へと引っ張り上げようとする曲者が現れたのです。
奇襲が成功したと怪しき曲者は思ったかもしれません。
しかし、さすがに三八郎は豪の者でした。
掛け声もろとも腰から抜刀し、髻を掴んでいる曲者の腕を切り落としました。

不思議なことに先ほどまでの風雨は治まり、雲は足早に立ち去り、美しい月夜が戻ってまいりました。
しかし、三八郎を襲ったはずの曲者の姿は見えません。
三八郎が暫く警戒をしていますと、天空より音を立てて落ちてくるものがあります。
見れば大きな鷲の足のような物で、血だまりを作り、ピクピクと動いておりました。

近くに住んでいる足軽の言うことには、昔から虚空蔵山に住んでいるクハジャという怪物に違いないと。

「火車」 鳥山石燕の『画図百鬼夜行』より

多田三八、湯村にて天狗退治す

徳川将軍のお膝元、江戸の旗本に剛勇無双と噂の多田三八という武士がおりました。
この三八が甲斐国甲府(現山梨県甲府市)にある湯村温泉の評判を聞き、是非とも一度この温泉に入浴したく主人に願い出て、はるばる甲府へと出立しました。

三八が甲斐の国へと入り天目山の麓までやってまいりますと、道端にある一本の大木から大声が轟きました。
「三八!」
大木の枝の上に何か怪物がいて、恐ろしい腕をグッと延ばして三八の頭をつかみます。
ところが、三八も名の知れた剛勇の者、少しも騒がず、心得たりとばかりに刀を抜いて頭上を切り払い、丈八尺(約5.4m)ばかりもある怪物の翼を切り落としました。
「うぎゃあー!」
怪物は悲鳴を上げ、消えるように飛び去ったということです。

三八は残念そうに刀を鞘に納めると再び歩き始め、湯村の温泉へと着きました。
気に入った宿屋を見つけた三八は旅装束を解き念願の湯に浸かることができたそうです。

さて雨風の激しく吹き荒れる日、一人の大法師がやって来て、三八と同じ宿屋へ泊まりました。
服を脱ぎ湯槽ゆぶねに浸かった大法師の身体には、背中の辺りに大きな刀傷があります。

「こりゃあ、大変な傷痕だけんど、坊さんはどうしてそんな怪我をしたのかえ」 
傍らの人が尋ねますと、
「これは多田三八という侍と、ちょっと遊んだ時に負った傷だ。まぁ湯治に来ってわけさ」
と、大法師は何気なく答えました。
気が合ったのか和気あいあいと話しに華を咲かせております。

その湯槽の隅の方で、先に入浴していた三八はひっそりとこの話を聞いておりました。
あの時の怪物と知り、近くにおいてあった大刀を引き寄せスッと立ち上がり、
「多田三八じゃ。これに参る!」と叫ぶと、大法師へと斬りかかりました。

切りかかられた大法師もさすがでした。
鳥のように飛び上がりつつ太刀をかわし、忽ち湯村山の方へ逃げ去ります。
三八は抜刀のままその後を追いかけましたが、ついに大法師を見失いました。

多田家では怪物の翼を天狗の翼として代々所蔵し今に持ち伝えているということです。
一方でこの事件以来、この湯を「鬼の湯」と呼ぶようになったということです。

※西山梨郡志参考。

本文註

※1)多田三八郎(たださんはちろう)
武田信玄家臣。三八、三八郎、淡路守と称す。他詳細は下段解説にて。

※2)髻(もとどり)
たぶさとも言い、髪を頭上で束ねたもの

多田三八郎 妖怪退治伝説の解説

場所 長野県上田市上塩尻、山梨県甲府市
時代 戦国末期、江戸期
話型 異類退治譚

多田三八郎について

まずは註の続きから、諱は昌澄、満頼などとあるが、文書上からは確認されていない、生年は不明、没年は永禄6年(1563年)。
摂津源氏一族の多田源氏後裔を称し美濃国(現岐阜県)生まれ、信虎、晴信の武田二代に使えた足軽大将。
原虎胤、横田高松、小幡虎盛、山本勘助と共に五人衆と称されたという。

『甲斐国志』においては、地獄の妖怪「火車鬼」を退治したとされ、『西山梨郡志』では山梨県甲府市湯村の湯村温泉で天狗を倒したとされる。

火車鬼とクハジャ

火車鬼は火車(かしゃ)の類と想定できる全国的に知られた妖怪と言える。
肝取り(きもとり)、クワシャ、テンマル他多数の呼び名もあり、文中の長野県南佐久郡ではキャシャと呼ばれると聞く。

火車とは葬式や墓場から死体を奪う妖怪とされ、平安期の火に包まれた牛車の姿は多くの人が思い描けると思う。
時代は下り江戸期になると猫又がその正体とされ、鳥山石燕『画図百鬼夜行』などにも描かれている。

全国各地には火車から亡骸を守る風習(火車除けの呪い、楽器を使う、棺桶に髪剃を置く他多数)が数多く残っていることを考えても、かなり身近で気を使うべき妖怪だったことが窺い知れる。
個人的には近年のネットに現れる怪談の中にも、その姿を見ることができる気がしている。

さて、江戸天保期に記された『茅窻漫録』に、挿絵があり「魍魎」と書いて「クハシヤ」と読みが書かれている。
あああ、気付きましたよね、そうです、クハジャ=カジャ≒カシャ=火車鬼と繋がりました。

妖怪退治は同一人物なのか

『多田三八、湯村にて天狗退治す』の多田三八ですが、湯村温泉郷のサイト他ネット上で確認すると、

ここで登場する江戸の旗本多田三八というのは、武田二十四将の多田三八(満頼)のことであると思われます。

途中の聞き伝え・言い伝えで変わったのでしょう

開湯伝説「鷲の湯」  湯村温泉

とされています。
あまりにも違いすぎ、伝え方がズボラすぎると思いますが、まぁ伝承を調べてるとないことではありません。
戦国期は信玄の隠し湯などとも言われており、時代的にも湯宿を設定するには少しばかり難があり、江戸期に旅行や湯治が流行ったことを考えればと何気に納得しかけておりました。

しかし、どうも気になってグーグル先生に相談しますと、流石ですヒントをご存じでした。

埼玉県加須に住んでいます。
(中略)
私の私の曾祖母の実家は大宮氷川神社神主物部宅道。ここは120代ほど現在も続いています。
宅道は養子で旗本多田三八幕府旗本大番組頭の五男です。
多田氏は武田氏の家来で勝頼と最期を迎えました。孫が徳川家に使え幕末まで存続しました。

語ろう、あなたのルーツを

どひゃあ、なんか出てきましたよwww
もし旗本多田三八が同名の子孫だったとして、彼が天狗を倒しちゃまずかったのでしょうか? 
色々思索が巡り、謎が深まる一夜でした。

追記:幕臣の名前追っかければ出るかもしれませんが、そこまで手が回っておりません。悪しからず。

参考にした文献及びWEB頁

書籍 杉村顕 1933年 信濃の口碑と伝説 信濃郷土史刊行会(1985年復刻版による) Pp.155-156.
電脳 Wikipedia
電脳 開湯伝説「鷲の湯」 湯村温泉郷
電脳 松平定能 1814年 甲斐国志 国立国会図書館デジタルコレクション 下 Pp.749-750. コマ番号376-377

伝説の周辺地図

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